自動車輸出物語 

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記載日付:2005年6月27日
ライター:鈴木富司
番号:000-075
タイトル: 三菱商事が手がける前のインドネシア市場開拓者

 
 インドネシア市場の開拓物語は 000-0028号で、「インドネシア自動車市場開拓初期物語 その1」として記載しました。しかし、その前にも物語があるのです。それは、三菱商事が参加する前に、営々とやってきたメーカーさんの担当者がいるのです。みんな、インドネシア大好き人間です。今回は、そのインドネシア大好き人間の人たちについて触れましょう。

 当時は三菱自動車工業になる前で、三菱重工業が乗用車ではコルト、ジープ、シルバーピジョンというスクーター、ふそうトラックを製造していた時代と記憶します。

 技術的に輸出に適する車種がほとんどなかった時代です。ジープは品質的には問題なくても、アメリカより技術援助を受けて製造をしていたものですから、輸出先が限定されていたのです。

 そういうわけで、インドネシア市場には、提携先の許可を得て、このジープを輸出していたようです。他には、輸出ができる車種がほとんど無かったという状況でした。

 この輸出は、三菱商事は出る幕はなく、三菱重工業が、都度商社を指定して輸出をしておりました。日商岩井など、いろいろな商社が出入りしていたようです。

 三菱商事は、そういう単発的な輸出には興味を示さず、「現地に代理店を設定して、アフターサービスもきちんとするシステムを構築した上で自動車は輸出するべき」との方針でおりました。特に、タイ向けいすゞ車で成功をしていたものですから、鼻息が荒かったのです。

 三菱重工業の安斎高安さんというひとが、ジャカルタに事務所を開設し、長期出張の形で市場を把握していたのです。当時の三菱商事のジャカルタ駐在事務所も、同じグループということで、商売はなくとも協力をしていたと思います。

 安斎さんは、ジャカルタの中心街メンテンという高級住宅街に住居兼事務所を構えて、スタッフも雇っていました。確か、福島さんというサービスの技術者も出張しており、その2人をアシストするインドネシア人スタッフがいたわけです。

 ひとりが、事務系のマルコープス氏で、後にわれわれの総販売会社になるニューマルワや、その後のKTB社の社長になるひとです。私の相棒でもありました。タイプは1本指で叩くのが上手くて、輸入業務など事務をこなしていました。ちょび髭を生やし、気持ちが優しくて、演説の上手なひとでしたね。英語が上手で、会話はもっぱら英語でした。

 それに、モネさんという背の高いインドネシア人も忘れることのできないひとです。技術系のひとで福島さんを補佐しておりました。後に、ニューマルワや、その後のKTB社のサービス担当の取締役になったのですが、もう、真面目さでは、誰にも負けない堅物でした。笑ったときの笑顔が、本当に素敵なひとです。日本語が非常に上手でした。いつも「スズキさんねー」って呼びかけてきて冗談を言い合って笑い転げたものです。

 安斎さんは、独特な雰囲気を持った方でした。インドネシアについて語らせたら、一家言をもっておりましたし、社内的にもインドネシアというと、「はい、安斎さんに聞いてくれ」という感じでした。もう、インドネシアが大好きで、出張しては帰ってこないという感じでしたね。

 理屈で話を進めても、「それは、インドネシアのことを知らないひとのいうことだ」という感じで、最初は中々かみ合いませんでした。1969年の10月に私が出張したときは、いろいろインドネシアのことを教えて頂きました。一緒にスラバヤにも車で視察をしたことがあります。当時は、ジャカルタ・スラバヤの幹線道路でも、地方の軍関係者が道路に丸太を転がしておいて車を止めるのです。なにがしかの寄付をすると通してくれるというのんびりした時代でした。

 安斎さんが立案したスラバヤ行きの計画は、のんびりしたもので、随分とゆったりした計画だったのです。私は本社からえらくしかられて、急行列車でとんぼ返りをした記憶があります。どこまでをインドネシア風にするか、日本流にするかの分かれ道が、そこにはありました。何しろ、免許証を頼んでおくと、麻雀をしているところに白バイに乗ったお巡りさんが届けてくれるという、実にのどかな感じだったのです。電報がなかなか届かないのを良いことに、「そういう電報は、届いていない、再度打って欲しいと返事をしておけば、また、一週間はもつよ。」という会話があった時代です。

 当時、ルーレットを中心としたカジノがあったのですが、「安斎式必勝法」なるものを熱心に語るのが忘れられません。「ねっ、こうやれば必ず勝つんですよ。」と得意になって語るのですが、私にはその理論がどうしても理解できなかったんです。夢を壊すのも気の毒に思って、その理論の欠陥をあえて追求をしなかったということなんです。それにしても、まだ、命がけのビジネス戦争がはじまる前でしたから、ほのかな
甘い思い出として残っています。

 安斎さんのアシスタントとして、三菱重工業の本社より福代亮三さんが派遣されました。このひとが、その後ずっとメーカー側の駐在員となり、製造合弁会社が設立されてからは、そちらに移籍になり社長も務めました。やはり、インドネシアが大好きなひとでした。まあ、私の現地におけるパートナーでもあったわけですし、家族ぐるみでお付き合いをした仲です。こわい、中村敬止さんに一緒に使えた仲でもあるわけです。

 このように、三菱商事が参入する前の段階から、メーカーの「インドネシア大好き人間」がいらっしゃったことも自動車輸出物語に記載して
おきたいと思います。

 また、発行の間隔が空いてしまいましたね。これからは続けます。次回からは、とっておきの、商社マンの「自動車開発物語」でも書きましょう。

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1つ目のHPに載せた本の写真は、私のパートナーが出版した本です。右の3冊は、私も関与しています。結構売れているようです。


神戸で罹災して10年以上経ちました。平穏な暮らしが続いています。「災害は忘れたころにやってくる」と言われていますから気をつけましょう。

若い仲間に古稀の祝いもやって貰いました。
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自分の志を形にできるのが幸せというのでしょうね。

鈴木富司
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