自動車輸出物語 

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記載日付:2003年6月11日
ライター:鈴木富司
番号:000-0068
タイトル: 海外における自動車部品補給と修理 その1
     (大好きな機械工具との出会いと輸出)
 
 私と車の修理の出会いは大分古くなります。三輪車を横に倒して絡まった糸を取っている幼児のころの写真が残っていました。今から60数年前の話しです。その時代のことと思いますが、年輩のポーランド人が行商に来ました。工具などを売りに来たのです。細い鎖を示して、これで機関車を引っ張っても切れないと説明をしていた光景は今でも強烈にイメージが残っています。何と、そのおじさんに悪いことを言ってしまいました。「ポーランドはドイツに負けたね」と。何でこんなことを覚えているかと云うと外人が訪ねてくるなんてことは初めてのことでしたし、そういう失礼なことを云って相手が悲しい顔をしたのだと思います。それが外人とのはじめての接触だったのです。外国工具とのふれ合いもはじめてでした。

 その記憶とは直接関係ないのですが、工具と云えば今でも強烈な印象として残っている物語があります。高校生のときに金物屋で見つけたスエーデン製のモンキースパナです。確かBarcoというブランドだったと思います。何しろ当時の日本製はナットの寸法に合わせても力を入れると開いてしまうのです。また、材質が悪いからナットを挟む部分が歪んでしまったりすることもあり、満足にナットを締めることが出来なかったのです。国産品はエビ印というブランドでした。Barcoは手に持つと何とも云えない感触ですし、ボルトに合わせるとそのまま力を入れることができるのです。本当にこんなものが世界にはあるのだとおおいに海外に興味を持ったものです。当時のお金で800円という大金を工面して買ったのを覚えています。昭和20年代後半のことです。本文を書くにあたり、Barcoとエビ印の両方で検索をしましたら、Barcoはそれらしきものは見あたりません。エビ印は立派に販売していました。東大阪の(株)ロブテックスという会社が大事に商標を守って販売を継続していました。見るからに品質の良さそうなスパナになっていました。

 東京工大に入学と同時に自動車部に入りました。殆どの1年生は免許をとるために自動車部に入るのですが、私は浪人中に免許を取っていました。当時の部活は修理がメインです。常に修理をしないと動かないのです。ラリーで箱根の山を越えられれば優勝をしてしまう時代です。一番古いのがフォードの29年型トラック。4気筒エンジンでした。34年型のフォードフェートン(オープンカー)もありました。車体が軽く馬力が強いので相当スピードもでました。1年生はなかなか車を触らせて貰えないので修理をした記憶はありません。先輩に連れられて萬歳自動車という自動車修理機械工具の会社を訪ねたことがあります。学園祭に展示するボーリング機械を受け取りに行ったのです。真っ赤に塗装したその機械を展示して説明をした記憶もあります。下宿にはそのポスターを貼って眺めていました。機械工具が好きだったのです。

 自動車輸出をはじめるときに重要なのは部品の補給と修理技術の移転です。自動車輸出の草分けを演じた浅井次長もそのことに腐心したようです。まずはバンコックで三菱商事が自ら代理店になって、いすゞ車の販売をはじめたときに、部品庫を設けたと聞いています。今のグランドホテルの前あたりだと聞いています。泥棒に入られて社員だか、出張者が大けがをしたという話しも聞いたことがあります。その後、私が入社した1960年頃には、タイのピヤタイロードに新サービスセンターを建てて、本格的に部品管理と修理を始めたのです。

 親分の中村さんも、機械や合理化が大好きなひとでした。あるときバンコックのサービスセンターの機械工具の装備を充実しようということになり、萬歳自動車とこれから現地に駐在するいすゞの技術指導員と打ち合わせをしなさいとの指示をもらいました。シベリア抑留の経験を持つ一級の営業マンである大工原氏が総合カタログを示して、効用を説明して勧めるのです。私は機械工具大好き人間ですし、現地の中村さんから合理化のために選べと指示を貰っていますので、わくわくしました。営業マンと一緒になって勧めるのですが、現場で叩きあげのいすゞの技術員はいらないというのです。「いいですわ、そんなの無くても出来ます。」とか、「あっても良いですが、結局使わないですよね。無駄ですよ。」現場のことを知らないデスクワークの悲しさ、本当に判断に困りました。

 その後、傘下の販売店用にグレードを分けて標準機械工具を設定して、販売店を設営するたびに機械工具をロットで輸出をしたものです。こういう物理的なことはお金さえ準備すれば設置はできるのですが、その指導員となると本当に難しいことです。当時は海外に派遣される指導員は腕の立つ名人芸を持ったひと達でした。販売が伸びるにつれてサービスマンの数を大量に育成せねばならなくなってきました。それを実施するのは総代理店である三菱商事だったのです。いつまでも限られたメーカーの指導員にばかり頼るわけには行かなくなったのです。日本の内地でもモータリゼーションの発達で、人手不足になっていました。それを打開したのが沖縄いすゞとの提携でした。まだ、沖縄はパスポートがないと行けない時代の物語です。

 実はお金の面でも大変ではあったのです。当時の商事会社社内では、資金を融資するには、それなりの理由と担保保証が厳しく査定されました。失敗すれば屋台骨が揺らぎますから、それは厳しい手続きが必要だったのです。ほとんどの海外取引は確かな国家公団、大会社を相手にしたものです。首都から遠く離れた田舎にある華僑の、それも帳簿もないような小さな個人企業に資金を貸し付けたいと云っても相手にされません。資金を融資をしなければ修理工場など持たない単なるブローカーのままです。店舗を新築させ、隣接して部品庫と修理工場を併設させるのが現地の中村さんの仕事です。その資金需要に応えるべく私は本社で融資の許可を得るのが仕事だったわけです。関係する部門は営業会計部、総務部、業務部、主計部、財務部、審査部、人事部にまで書類を廻さねばならかったような氣もします。関係者にその必要性を訴え、リスクがないことをイメージさせるのが仕事でした。売ることより、資金手当の方が遙かに大きな仕事だったのです。メーカーのいすゞさんもそこらへんは良く判っていて、随分と応援をして貰いました。担当の若造のときに、いすゞさんに銀座や新橋でご馳走にもなったのもそういう背景があったのです。
 

 タイの現在のサービスセンターを建設する資金手当にも参画しました。これはまだ、書いていないですね。土地手当の秘話をどこまで書けるかな。中村さんの建設会社との迫力ある交渉(というより、ほとんど喧嘩)の話しなどは、側で見ていたひとが筆にして頂けると面白い物語なのですけれど。

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 今日は薄日が差しています。いよいよ梅雨に入りますね。何だか、本当に季節の移り変わりが早い感じです。

 このところちょっと暇かな。古い書類の整理などをしています。これから何をするか、自分の天命・天職はなにか、など考えながら過ごしています。
こうやって健康に暮らせるのも、使命があるからでしょうね。
昨日は、メキキの会の営業頭脳場があり、青山まで出かけました。面白い仲間と会い、人間関係をつくるツールの説明を受けたあと、わいわいとブレストを楽しみました。

鈴木富司
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