自動車輸出物語 

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記載日付:2002年12月23日
ライター:鈴木富司
番号:000-0063
タイトル: 自動車国産化法令と実践 その11  
     (ある組み立て工場の立ち上げ)

 改装した組立工場の事務所で操業の準備をしているときでした。沢山の青年が事務所の周りを走っているのです。担当役員のヘルマンさんに「あの子達は、何をしているの?」って聞いたら、「鈴木さんが言ったではないですか。そうやって採用しなさいと。」「???」一瞬意味が判りませんでした。思い出しました。確かに駆けっこをさせて採用をしたらと言っていました。しかしですね、私のイメージでは、一列に並ばせて用意ドンで一斉に走る短距離競争の意味でした。全く、マラソンをさせるという意識は無かったのです。

 それより大分前になりますが、1970年頃の話と思います、日本のトップブランドのタイヤメーカーさんに勇ましい工場長がいて、聞いたことがあったのです。作業者を募集したら沢山集まり、選びようがないので、一斉に走らせて採用をしたというのです。それを思い出して確かに言いました。ヘルマンさんはインドネシア大学とタイアップをして、そこのメンタルテストも実施し、その上でマラソンを実施したとのことでした。私の「駆けっこ」という日本語は充分理解をした上で持久力の方が大切だということでマラソンにしたという次第でした。

 プレス工場に採用したときは工業高校卒を採用したのですが、今度は中学卒にしようということになり、そのような採用方法になったのです。非常に真面目な人が採用できました。それにしても熱帯地方で広い工場敷地内を炎天下何度もぐるぐる走るというのは気の毒な話です。何しろ200名くらい走らせて採用するのは10人程度だったか、えっという位競争率は高いのです。採用に漏れたひとを手ぶらで返すのは余りにも可愛そうと考えて宣伝用のギブアウエイを差し上げたらと言ったのを覚えています。それに今でも印象に残るのはその子達が綺麗なトレパン姿だったことです。あるいは親族が子どものために新調をしたのかも知れません。1980年ごろの話しですから、もう40才近くになって今頃どう暮らしているのでしょうね。

 この工場は最初はピピットモーターと言っていました。最初のオーナーの子どもの名前とのことです。GMが工場完成を待たずに技術援助を止めてしまい、7年間もほってあった施設を買い取って三菱の関連工場にしたのです。その工場を設計したドイツ人のオートナー氏については、自動車輸出物語000-0025号
http://www.yk.rim.or.jp/~larszk/000-0025.html
に詳しく書いておきました。現在は三菱の総販売店KTB社の関連会社となり、今でも操業をしていると思います。

 私はこの工場の再建が三菱ブランドの乗用車の本格的な販売には不可欠と考えて非常に無理をしました。何しろ工業省は新しい組立ライセンスは認めない状況で、ギャランをボルボなどの工場に委託をして細々と売っていました。ランサーを追加して販売するには自前の工場が必要なのです。このお化け屋敷みたいな古い工場を再建せねば組立ライセンスが得られないわけです。権利関係も複雑になっていました。当然、コストの面でも疑問がでてきます。更に、本社との間で大きな誤解があったことが判りました。それまでトラックの組立工場しか建設していませんから、それと比較して馬鹿高いと考えたようです。乗用車用は塗装設備の内容が全く違うのです。設備の値段が桁違いに割高につくわけです。そこらへんの説明が不充分で、ただ闇雲に突っ走っていましたものですからおかしいと思われたのかも知れません。ずっと私を可愛がって育ててくれた本社の林哲男自動車部長がジャカルタまで飛んで来てくれました。現場を視察されたあと二人だけでお話しをしましたら理解をしてくださいました。

 誤解を受けてまで情熱を傾けられたプロジェクトを手がけられたのは今になると本当に嬉しいものです。今から8年前にその工場を訪ねたことがあるのですが、塗装工場は勿論のこと事務所から井戸まで懐かしいものばかりです。顔を覚えてくれていた人々も懐かしそうに握手をしてくれました。当時私の為に植えてくれた木が、周りの木よりも小さいのです。これは鈴木さんの木だから大事にせねばというので肥料を与えすぎて木が弱ってしまったのだそうです。マラソンをして合格した人たちの思い出とともに微笑ましく思い出されます。

 私の書斎には銀製の盾が飾ってあります、ジャカルタを去るときにヘルマンさんなど皆さんが贈ってくれたものです。そこには大きなイベントが年代順に記載されています。1980 : Project of P.T. Pipit Motors Assy Plant in Ancol. DKIと記載れています。そのヘルマンさんは後にインドネシアの自動車工業会の会長として国際的にも活躍されました。いずれ人物紹介は個別の物語として書きましょう。

 ボルボへの委託組立も思い出がありますね、次回はヨーロッパの会社との関係物語を描写してみます。

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 柿の木に残していた1個の柿もウグイスやらヒヨドリがついばんで今朝はなくなっていました。いよいよ冬ですね。

 前回発行してから5週間以上も経ってしまいました。姉のお葬式やらいろいろ続いて、隔週発行が遅れてしまいました。まあ、無理をしないで続けることが肝心かなと思っています。

 この2日ほどは、思わぬ経験をしています。SQA本社よりの連絡で急に試験を受けることになったのです。何と電子部品の組立や半田付けに関するものです。中学高校生のときにラジオを組み立てた経験はありますがこの分野は素人です。まあ、コーディネーターとして知っておきなさいということなのでしょう。

 米国はやることが豪快です。細かな字と写真が載った372頁ものマニュアルを送ってきました。プリントするだけでも大変です。分厚い重い本が2冊になりました。それを一昨日は集中して読むはめになったのです。何年ぶりかの勉強です。フォトリーディングをやっておいて良かったと思っています。

 昨日は朝8時から国際電話をつなぎっぱなしでした。約6時間、中国、マレーシア、シンガポールの受講者も電話会議システムでつながり米国側の先生の説明を聞いたわけです。続いて試験でした。終わったら夜でした。まだ、試験は続くようです。今度は直接電話で試験があるとのことです。大学の卒業免状や自動車輸出物語の筆者というだけでは国際的に通じないのでしょうね。資格がないとお金が支払えないのかも知れません。

鈴木富司
larszk@yk.rim.or.jp
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