自動車輸出物語 

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記載日付:2002年2月20日
ライター:鈴木富司
番号:000-0044
タイトル: 43冊のパスポートは重かった

 3万台の三菱ギャラン乗用車を一括購入するという大型商談でバクダッド出張中にイラク・イラン戦争が勃発して猛烈な空襲を受けた話は32号に書きました。今回はその空襲中のバクダッドからの脱出の物語を書きましょう。

 連日のようにイランから飛来するファントムの爆撃を受けておりましたので、支店では家族と病人を中心に国外に避難させるべく方策を検討中でした。勿論空港は閉鎖されましたし、バスでの脱出になるわけです。クエートの方が近いのですが、道路がファントムの飛行範囲ですので、西に向かってヨルダンのアンマンに行かねばなりません。1000キロを超える道のりです。

 それにややこしい問題としては、Exit Visaの問題がありました。通常日本でビザと云えば、入国査証のことですが、当地では出国査証というのがあったのです。つまり、社会主義の全体国家ですから、買い付けもすべて国家機関が相手であり、クレイムなどが発生すると出国ビザを止めてしまう仕組みのわけです。本国で親が死んでも査証が出なければ出国できない制度です。実際にクレイム問題が解決しないので何年も出国を許されないひともいました。更に、その手続きが大変なのです。海外でいろいろなことを経験しましたが、フィジカルにつらかった体験の最大級のものでしたね。

 何しろ、石油景気に群がってやってくる労働者の数が多くて入国事務をさばききれないのです。われわれ輸出屋は、その肉体労働者と一緒の扱いでした。石油などを輸入する輸入屋は、若いひとでも、ベンツでお迎えを受け、迎賓館に泊まれたようですから、同じ商社員でもまったく違いましたね。灼熱の気候での粗末な入国審査の事務所は、皆さんには想像を絶する場所です。行列を作っても人の海で、行列にならないのです。4時間くらい立ったまま待たされるのは当たり前という状況です。手錠や拳銃を持った係官が列を乱したと云っては殴るし、恐怖でした。

 そういう経験をしていましたので、脱出行のとき、真っ先に心配したのは西の国境で、出国査証でトラブッたらどうしようということでした。大型バス1台と中型バス1台がまずは出発が決まりました。3台目のバスの手配ができたら、頼まれるなとの予感がしました。丁度、仕事も付帯修理工場の見積書も提出して一段落をしていましたので、避難団の責任者を仰せつかるのは当然と感じていました。そこで、予めどういう方針で引き受けるかをメモに書いておきました。小林支店長室に呼ばれたときに、そのメモを出したのを覚えています。要点は、荷物の制限、座席の順番はすべて支店側で決めて下さいということと、一旦非常事態を宣言したら一切鈴木に従うように全員に徹底して欲しいこと、だったと記憶します。

 全員で43名、ほとんどが支店員の若い奥方と出張者でした。肝臓を患って真っ青な顔をしているひともいました。心強かったのは、自動車の商談に同行していた仲間がいたことです。三菱自工の有森さん、安全自動車の金戸さん、それに商事の小田さん、上野君でした。皆、お酒の大好きな仲間です。何かと知恵を頂き励まされました。心配していた出国査証のないひとも数名いました。しかし、出国査証がなくても出国できるという小さな新聞記事がでていたので大丈夫であろうという程度のことで出発をせざるを得ませんでした。もし、出国をできねばそのひとたちをどうするのか、全く方策は判りません。一週間くらいはバスの中で野宿になるかも知れないという話もありました。灼熱のバクダッドでしたが、国境の辺りでは夜は相当冷え込むとまで云われていたので、心配したらきりがありません。

 支店長との約束どおり支店の人々がバスの手配から荷物の積み込みもすべて済ませ、全員着席したあとに乗り込んだとき、空襲警報が鳴りました。全員近くの家に避難するというハプニングもあり、ドラマティックな出発でした。バスはイタリアのフィアット製の格好のよい高速バスでした。ドライバーはトルコ人でした。チグリス川の橋を渡り暫く走りますと、ファントムの航続距離が及ばない地域になり、ひとまず空襲の危険からは避けられたと安堵したのを覚えています。あとは、一路真っ直ぐの道を時速140キロの高速で走るだけでした。片側1車線の対向車のある普通道路です。まわりの景色は全く同じで家も山も何も見えなかったと記憶します。ただ、土漠の中の一本道を突っ走るだけでしたので、何も覚えていません。夫を空襲の続くバクダッドに残してきた若い奥様方は、ただ無口で、誰も押し黙ったまま窓外の単調な景色を眺めていただけでした。何事も起こらず、ただ時間だけが経過していきました。

 4〜5時間走ったでしょうか、意外に早かったなという感覚で国境の検問所に着きました。駐車場があり、平屋の事務棟が並ぶところでした。よく覚えていませんが、何人かのひとと全員のパスポートを預かり恐る恐る窓口に並びました。パスポートって重いのだなと実感したのを覚えています。あとはじっと待つだけでした。バクダッドでの拘置所のような恐怖の査証事務を味わっていましたので、余りの簡単な審査と手際よい事務処理にわれを疑いました。ポンポンと全員のパスポートにチョップが押さました。出国査証の有無も不問でした。助かったという感じでバスに戻り、歓声で迎えられました。長居は無用と、すぐ出発です。その後の手続きは、全く覚えていません。踏切みたいなバーが開かれて出国したのだと思います。

 ヨルダン側での入国手続きもあったのでしょうが、問題はなかったのだと思います。とにかく、これで全員助かったという安堵感にひたっていたのだと思います。出発前に、ヨルダンの三菱商事の同僚が国境まで迎えにでているかも知れないと云われていたのですが、それらしいひとも見えないので、そのままアンマンに向かいました。それに、国境といってもどこが国境か判らないのです。両方に検問所があり、常識的には検問所を出たところなのでしょうが、駐車場があるだけですから、その先に建物があるのかないのかも判らないのです。

 それから暫く走り続けました。ふっと気づいたのです。もしや、出迎え車とすれ違うかも知れないなと。たまたま持っていた三菱車の宣伝用の大きなステッカーをバスのフロントガラスに貼り付けたのです。本当にそれから10分もしない内に、向こうから大きな三菱マークをつけたベンツのバスが近づいて来たのです。双方とも140キロで走行していますので、あっという間のできごとでした。ドライバーにストップを命じて止まったときは、相手は相当向こうに行っていました。それでも幸い、気づいてくれて戻ってきてくれました。途中何台もバスやトラックとすれ違っていますから、マークをつけていなかったら出迎えにきてくれたひとには連絡がつかなかったと思います。

 そのあとは、出迎え組の市橋氏にすべてを任せて酒を飲んでいました。ご夫人方に心配ごとを忘れるようにウイスキーを勧めて車内で飲んで寝てしまいました。皆さん、結構飲んだなーって記憶があります。アンマンについたのは、夜の11時ごろだったと思います。翌日、長文の報告書を書いたのを覚えています。金戸さんが書いてくれた得意のイラストは、いまでもわが家のどこかにしまってある筈です。空襲の状況や脱出の経路などを細かにイラストに描いた傑作です。

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 古武道の和良久は続けています。80歳のひとが作った袴も手に入りました。和良久を考案した師範と一対一での立ちまわりまでしたのです。感動です。

 8月に私の同志の藤村正宏さんが本を出版したことをご案内しましたが、2冊目もベストセラーになっています。今度は、「ニーズ」を聞くな!「体験」を売れ!<オーエス出版社>です。私も文中に登場しています。
http://www.t3.rim.or.jp/~fujimura/freepalette.html

鈴木富司
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