自動車輸出物語 

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記載日付:2002年1月10日
ライター:鈴木富司
番号:000-0041
タイトル: 高度成長期の超多忙はちょっと味が違います

 「ひととり鈴木」と言われたのは1970年代の初めのころと記憶します。人と目が合うと嘱託として採用してしまったからです。「インドネシアプロジェクト班」班長を若くして拝命したころのことです。班長といっても、権限は課長と全く同じでした。規模が小さかったので課ではなく班にしたものと思います。林哲男部長の英断で若手の抜擢と機動性のある組織として特別に編成をして頂いたものです。

 何しろ膨大な事務量があり、毎晩のように中村御大から国際電話で次々に要望が舞い込み、超多忙がつづく状況でした。部下は男子2名女子が1名か2名の小世帯でスタートした班でしたから班長兼小遣いさんでした。当時高度成長期で会社中が人手不足の極致にあり、林哲男部長も正社員の獲得は全く無理との認識でした。嘱託でも何でもあらゆる手段でひとを集めてよいとのお墨付きを貰っていました。今みたいに派遣業などはありませんし、格式高い三菱商事で正社員以外を社内にいれるのは全く異例の場合だけだったのです。

 今考えてもやりすぎだなと思う手を次々に打ちました。海外で働きたいという自動車の修理技術者を採用したものの、余りの忙しさに現地に派遣せずに事務処理をやらせました。広告費のメーカー援助金の請求事務を一年間も溜めてしまったという状況だったので、その請求事務をした貰ったのです。採用したインドネシア人の留学生に船積書類の作成もさせましたね。定年退職をした信号会社の技術者を雇って貰えないかと言われればいいですよと来て貰い、各種統計書類の作成など何でも頼みました。

 菱光倉庫と業務契約を締結して事務員を派遣して貰いました。今で言う派遣業のはしりです。契約書もひな形はありません。菱光でも人手不足ですから、それもそう簡単ではありません。「丸の内で働いて見ませんか」などと女子社員募集の新聞広告まで出してしまいました。人事部が文句を言っても「ダメなら正社員を回せ」というように強引なことをいいながらやってしまった記憶があります。自分で給与を決め、面接もして籍だけ菱光に入社して貰い、派遣をして貰ったのです。何しろ、時間がありませんから、思いついたら即実行です。人事上の専門知識もありません。問題がでたらあとで考えるという方法です。菅原さんという素晴らしく有能な人材に恵まれました。しかし、本人にはご苦労をかけたと思いますね。正社員の女子事務員とボーナスなどは格段の差があるし、派遣社員という習慣のないときですから、いろいろとあった筈です。結果がよかったからいいようなものです。そういう無茶は年輩者だったらやらなかったでしょうね。今の時代、若い人がおおいに無茶をしてもいいのではないかな。

 それいけドンドンで業務を拡大して行ったわけです。守りのことは考えませんから、思わぬ事態も発生したものです。しかし、時代なのでしょうね、輸出が伸びるというのは、日本においては社会正義だったのです。それに従事している満足感が全員にあったと思います。一丸となって取り組んだよい思い出だけが残っています。

 いつの間にか14名の大所帯になっていました。しかし、ほとんど嘱託で業務をこなすのは無理がありましたし、とても後任の課長に管理を頼むわけにもいきませんので、正社員獲得にも全力をあげました。1976年に私自身が現場の仕事を担当することになり、後任課長に引き継いでインドネシアに転勤になったときには、ほとんど正社員に切り替え、最強の精鋭部隊としていました。

 思い出すことがあります。長男が中学生になり高校受験や大学受験の話がわが家ででるのですが、東大や一橋に受かるひとは周りの中学や高校にはいないというのです。会社へ行くと部下のなかに一橋卒業のひとが5人も居るのになーって思ったことを覚えています。それも、ろくな仕事をさせてないわけですよ、誤送欠品の部品を手配して、ジャカルタに行くひとに託送を頼むために空港に駆けつけたり、いまでは宅急便で済むようなことを、そういう精強部隊が全部やっていたのです。そういうメンバーも今は三菱商事の幹部社員になって立派な仕事をしています。

 嘱託についてはこんな思い出もあります。大分経ってからのことです。社内の菱和という雑誌の座談会に出たときのことです。他の本部の調子のいいひとが人手不足の対策として嘱託を採用する積もりだと、上席者に得意になって言うではありませんか。余りにも気軽に、それも上っ面だけの議論をしているものですから、ムカッときましてね、自動車部のいろいろなケースの実例をあげて発言を引き取ったのです。外人の例、女子の例、定年退職者の例、業務提携の例などをあげて安易にやるなと忠告をしたわけですよ。すっかり場が白けてしまいました。編集者も記事にできなかったと思います。当時のサラリーマンとしては、人事部に代わって面接をするというようなことは、絶対に手を出さないことなのです。特に出世を目指すひとは、口では格好良く言っても自分では実行はしないことを知っていましたので、腹を立ててしまったわけです。

 「君、それは良い案だよ、どんどんやりたまえ」なんて格好をつけている上席者を前にして、恥をかかせるような発言は、今だったらしませんね。自分はやったぞという自負心もあり、自動車部は違うぞという気負いがあったのだと思います。まあ、自分をアッピールしたかったのでしょうけれどね。

 本社での忙しさも凄いものがありましたが現地の中村御大の猛烈ぶりは物語です。社宅の下見が夜中の12時を回っていたなどという、とっておきの超多忙物語を次回に披露しましょうか。

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 明けましておめでとうございます。子供や孫達11名が全員あつまり本当に楽しいお正月を過ごしました。昔なら数え年でいいますから、私も68歳のおじいさんになりました、というところです。

 新年早々本業のラーソンの仕事をしています。アメリカ本社からデザイナーを迎えて岐阜の水族館の設計の打ち合わせに入っています。それも古巣の三菱商事の本社事務所に3日間通いました。懐かしいですね。インドネシアユニット(部のような単位)という名前がドアに書いてあるのを眺めてご満悦でした。昔の新入社員の何人かにも会いました。皆さん貫禄がでて、本当に嬉しい限りです。ベリコードユニットとうい組織の名前がドアに書いてあるのを見つけました。アメリカの暗号を使った先進技術を見つけて、自動車の生産ラインに使えるぞと導入を図ったのが結実したようでした。

 今年も引き続き書きますので、よろしくお願いします。トヨタさんや日産さんで経験した人も、投稿をしてくださると嬉しく思います。是非、ご紹介を下さい。ホンダさんの物語は豪快だと思いますね。物語番号も6桁とってあります。

鈴木富司

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