自動車輸出物語 

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記載日付:2001年12月2日
ライター:鈴木富司
番号:000-0038
タイトル: 初めての出張とバンコックの様子

 初めての出張というのは良く覚えているものです。1962年10月16日、SASでマニラ経由バンコックへ飛びたちました。親分の中村敬止さんが出迎えてくれました。今だからあかせますが、間違って乗り継ぎ客の列に並んでしまい、入国手続きに結構時間を食いました。親分はいつもより時間が掛かったと感じていたようでした。滞在は12月末までの長期出張でした。

 出張目的は6月ころ赴任をしていた中村親分の手伝いでした。ちょうど、いすゞの販売が急成長を遂げたときですし、いすゞ販売の総責任者であった岩井さんが本社の指示でマレーシアに出張していましたので、その応援でもありました。それに産業奨法がだされて、組立工場を建設するための調査をするという大きな仕事もあったのです。工学部出身の若い商社マンとしては、いやでもはりきったものです。10月は季節がいいものですから、いすゞ本社からお偉さんが沢山参りました。楠木専務、そのほか私が滞在中に三組くらい見えたはずです。そのなかでも葛野取締役輸出部長は忘れられない思い出があります。北部タイまでの地方視察にお供をしたのです。これは、別の物語にまとめることにします。

 出張手当は当時の内地給与にくらべると破格のものでした。何しろ給与が18千円位のころの話です。ポケットの中は100円玉しかないつましい窮乏生活でした。前年の女房の誕生日にシクラメンを買ったのに、その年はそれが買えずにひと鉢100円のさくら草にした記憶があるほどの貧乏物語です。それが、何しろ1日20ドルという出張手当です。1ドルが公定で360円、やみドルは400円の頃の話です。それが、90日近い出張です、同期入社組でも最初の長期出張ですから、社内でも注目を集めて、本人は得意満面でした。それでも、ちょっとした波乱がありました。最初の月は現地の経理のひとから、はいっとばかりに600ドルを貰ったのです。本人も周りのひとも、1日20ドルと思いこんでいて、結構贅沢に使っていたのです。ところが、2ヶ月目に入ったら、経理のひとが、気の毒そうに鈴木君、どうも長期出張だと20ドルでないんだというんです。確か、11ドルだったと思います。激減でした。ちょっと、お土産を買いすぎたかなと、それからは少し引き締めましたが、それでも結構なお小遣いを充分味わったものです。

 当時のバンコックは、交通渋滞などは全くない緑豊かな街でした。広い道路の両側はクリークで、火焔樹の並木がつづく道路が多かったようです。いすゞ販売拠点は私が出張したときには新しい本格的なサービスセンターがピヤタイロードにできて間もなくのころでした。現在のピヤタイロードはバンコックの市内の真ん中ですから、当時の面影は全くないと思います。両側に大木が並ぶ狭い道で、事務所の直ぐ近くに運河があり、たいこ橋のように急な坂のある橋がかかっていました。その運河には運搬船が何艘もつながって動力船に曳かれていく光景もみることができました。あるお祭りがあり、大勢の行列が事務所の前を通過したことがありました。像の隊列もその狭い道を行進するのです。カメラを持って飛び出して夢中でシャッターを切った記憶があります。

 テルはエラワンホテルが有名でそれ以外はホテルらしいものがなかったところ丁度、グランドホテルがオープンし、楠木専務さんが泊まられたと記憶します。足で漕ぐサムローという三輪車も街中を走っていましたが、徐々に禁止地区ができたころです。モーターサムローという動力式三輪のタクシーがありました。われわれも、そのモーターサムローには乗りました。右、左、止まれというタイ語をすぐに覚えさせられたものです。いすゞから見えた、面白い豪快な修理指導のひとがいました。酔ったときの話でしたが、右・左の言葉が判らなかったので、運転手の右と左の耳を持って馬車の御者よろしく、空港からモーターサムローに乗ってきたという話に大笑いをしたものです。

 私はサトーンノースNo.10に下宿をしておりました。賄い付の下宿ですが、毎日忙しく夜中に帰る生活ですから、一度も下宿で夜食を食べたことはありませんでした。事務所には毎日、中村さんが車で迎えにきてくれて二人で通いました。事務所には所長室しかエアコンはなく、中村さんと私は販売部のカウンターの外側で待合室とついたてで仕切り、のトイレの前の一角に机を向かい合って置いて執務をしていました。日本人は、販売が本多さん、部品が岡田さんというひとでした。岡田さんは、戦前からタイにいたひとです。それに、その事務所は販売事務所ですから、修理工場もあって、明石さんと小久保さんというひとがいました。全く戦前のひとという感じでいろいろと驚かされたものです。何かの機会に明石工場長の報告書を読んだのですが、吹き出してしまいました。民主教育を受けた私には別世界の表現でした。兄弟子がどうのこうのと書いてあるのです。マネージメントも全くすごいものでタイ人の弟子を集めた会合にもでましたが、とても合理的な感覚では介入することすらできず、これから改善をしていく中村さんのご苦労は大変なことだなと感じた記憶があります。

 地方の状況やナイトクラブの話は次回のお楽しみにということにします。

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 ついに12月に入ってしまいましたね。いつも隔週水曜日には発行をしているのですが、先週は10月に買ったばかりのMACが故障をして、秋葉原のクイックガレージに入っていたものですから、発行が遅れてしまいました。back upはとっていたので、助かりました。このところ、ウイルスも凄いようですが、これはMACということで、余り影響を受けておりません。

 懸案のランサーセディアワゴンの塗装もやりました。難しいですね。現役時代、インドネシアで、たれがどうの、オレンジピールがどうのと塗装について生意気なことを言っていましたが、いざ自分で塗ってみると本当に難しい。オレンジピール程度の問題で塗れたなら上等と販売店には誉められたのですが、最終工程の磨きをやっていたら、中塗りの白い塗装が現れてしまい、どうやら上塗りはやりなおさねばならないようです。

鈴木富司

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