自動車輸出物語 

戻る

ホームページ

国別表

メーカー別表
記載日付:2001年10月3日
ライター:鈴木富司
番号:000-0034
タイトル: 中村チーフアドバイザーと泥棒の知恵比べ(その2)

 当時はインドネシアの国産部品もほとんど無かったので、部品はすべて日本より箱詰めにして船で運び、組み立てていました。工場は最初は市内の中心部にありましたが、何年か経って郊外に新組立工場を建てました。因みに完成車の輸入は禁止でした。ですから組立のライセンスを持っているものだけが販売できたのです。円滑な組立作業というものは非常に重要でした。組立で一番困ったのが誤送欠品問題でした。送られてくる部品に欠品があったり間違って梱包されてくるわけです。予備の部品をそれほどストックしておくわけにもいかないので、あっという間に出荷のできない車が置き場に満杯になってしまいます。誤送欠品問題は大きなテーマですから、別途物語に仕立てましょう。それで前回書きました部品の港の近くでの盗難は頭の痛い問題だったのです。

 更に悩まされたのが港における通関の遅延です。2週間で通関できたのもあるし、2ヶ月以上掛かるのもあるという具合に一定しないのが一番の悩みでした。予定が組めないので余分に在庫を持つわけですが、資金的にも大変です。予定というのが立たないことがイライラするもとですが、実際に在庫が切れてラインがストップすることもしょっちゅう発生していました。

 通関をする税官吏さんも随分と困っていたのだと思います。産油国として急成長をとげていたものですから急に輸入貨物が増えて港は物理的にも事務的にも大混乱という事情があったのです。更に、税関の規定があいまいなこともあり、手を変え品を変えて輸入税を安くあげようと不正をするひとが多いのです。チェックも厳しくならざるを得なかったわけです。正直者までその影響を受けるわけです。自動車産業と税関の問題は非常に難しい問題がありました。単に組立といいましても、どこまでばらして現地で組み立てるかという問題があるのです。例えば、トラックのフレームを梯子の状態まで日本で組み立てて持ち込んでよいのかフレームまで現地で組み立てなさいとなるとそれを組み上げる治具や工具がいるわけです。この時の工業省の規定では現地で組立なさいということでした。それを梯子のまま持ち込もうとしたところもあるようです。まあ、こういうのをチェックするために、税関も大変なわけです。これなども物語の題材としてはいろいろありますから、別途纏めることにしましょう。

 さてさて、そういう港の困難な問題と盗難防止の一挙解決を狙った中村さんの秘策は、なんと、港を別に開港してしまったのです。ジャカルタから240キロも離れたところにチレボンという有名な港がありました。そこが設備が老朽化したこともあり、ほとんど使われていなかったのです。そこを整備して新規に使おうとの発想です。何しろ、ジャカルタより240キロも離れていますから、その輸送賃だけでも馬鹿になりません。東京の工場で使うのに横浜で荷揚げをしないで静岡の港で揚げるようなものですから、普通は考えませんよね。

 民間企業の三菱が港の整備のお手伝いをして、外航船も寄港するようにしたのです。普通の発想ではでてこないのですが、産業立国を目指すインドネシアの最先端の組立工場を円滑に運営するための施策としては至極当然の発想でもあったわけです。税関長も随分と喜んだようです。三菱車の部品だけ日本からチレボン港に運ばれたわけです。これだと他の荷物が殆どないから通関の手続きも税官吏が総出でやってくれますし「専任」みたいなものですから書類のチェックも早いですよね。荷役をしたりジャカルタまで陸送をしたりする業者はチレボンの有力者で、三菱車の販売店をやっていたウイドドさんを起用しましたから、泥棒さんにも目が届くわけです。別に三菱だけを特別に扱って貰ったわけでもないので不正でも何でもないわけです。ただ、何故か他社は使っていなかったですね。大分あとになって聞いたのですが、他社はチレボン港が使えるのを長い間知らなかったようです。何故、三菱は組立ラインをストップさせずに維持しているのだろうと不思議に思っていたのでしょうね。積極的にPRする必要まではありませんからね。

 物語として書けば簡単ですが、これはやはりメーカーさんには着想も実行もできない総合商社の力だったと思っています。とにかく、廃港同然になっている港に外航船を寄港させるというのは船会社への働きかけも必要ですし、説得力がなければ実現しないわけです。確か三菱商事の運輸部からもチレボンに出張をして貰い、綿密な計画のもとに実施したと記憶します。船会社にとっても、これは好都合なプロジェクトだったと思います。大混雑をしているジャカルタ港に荷物を運んだら沖で待たされることもあるし、予定が立たないのは本当に困るわけです。それが、ほとんど独占の港なら予定もキチンと立つし、このプロジェクトが失敗したら港の官吏も仕事がなくなるわけですから、大事にしてくれまよね。

 そういうわけで、現地の海運当局、工業省、税官吏、陸送屋、船会社、組立工場、それにわれわれみんなが喜んだプロジェクトでした。困ったのは泥棒とコンペティターさんだけだったというわけです。何しろ、ジャカルタの港が混んで部品が届かずラインが止まって(と想像します。あの状況ではね)販売ができない間に、三菱コルトが市場を席巻していったのですから。市場が伸びる時というのは、玉は絶対に確保しないとえらいことになるのです。競争は知恵の源泉という物語です。

 チレボンにはもうひとつ思い出があります。ジャカルタに5年間駐在したあとに何か思い出になるものを買いたいと思ったのです。古地図を眺めていた女房がチレボンには骨董品の良いものがあるに違いないと言い出しましてね出かけていきました。昔は中心的な港だったようです。市街地の奥まったところで車も入れない路地裏に由緒ありそうな骨董屋を見つけました。美しい珍しい壺に出会いました。一瞬に決めました。ピアノを売った代金をそっくりまわして買い求め今でも大事に持っています。阪神大震災に東灘で遭遇したのですが、台座がこなごなになりながらも奇跡的に壺の本体は助かりました。

 今ではジャカルタ港もコンテナー船が出入りする近代的な港になっていると思います。もう、チレボン港で揚げて陸送はしていないと思いますが、チレボンの販売店のウイドドさんの顔が思い出されます。

                      次の物語

                 戻る