自動車輸出物語 

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記載日付:2001年8月22日
ライター:鈴木富司
番号:000-0031
タイトル: インドネシア自動車市場開拓初期物語 その4

 法令の番号まで覚えていたのですが、さすがに30年以上経つと内容も経緯も忘れてしまいます。ただ、その法令に従ってマルワモーターというところを輸入販売代理店として登録したのがスタートだと記憶しています。契約書にはいろいろと解約条件はついていたのですが、登録は簡単な紙切れ1枚で、それによってご縁が確定的になりました。

 マルワという名前はスワルマさんというひとが自分の名前を逆さにして命名したとのことです。ユーモアがありますよね。昔ドイツに留学をしていて政府のお偉方が若いころドイツで大分面倒をみたりした関係もあり、上層部にはコネがいろいろあるようでした。このスワルマさんは自動車については滅法詳しくてペルモリンという有名会社のオーナーでもありました。

 その当時は、もうベンツの公式の代理店ではなかったと思いますが、戦前からベンツが使っていたベンツのマークのついた大きな店舗を全国に5個所も持つ会社です。それにジャカルタの中心街、それも大統領府のすぐ脇に大きな店舗を構えていました。そこに、何と組立工場が併設されていたのです。それも由緒がありまして1886年だったかに建てられたフックスアンドレンズという馬車製造工場だったのです。東京で言うと麹町みたいな立地です。その工場は工業省が指定したジェネラルアセンブラーには入っていません。しかし、そこはよく出来たもので、ローカルアッセンブラーというカテゴリーで認定されました。東京側はジェネラルアセンブラーとローカルアセンブラーの定義の違いは何かとか、いろいろ考えたのですが、そういうことはどうでもよいわけです。結局未だに判りませんが、いずれにしても三菱車の指定工場がジャカルタに持てたのです。

 その後、更に軍関係の工場も特別に指定工場に追加されました。特にカテゴリーの名前はなかったですね。通称パラッドという工場がわれわれのジープの組立工場として認定されました。いずれにしてもあれだけ難航が予想された組立工場がジャカルタに二個所も持つことができたのです。あとは治具を入れて組立の工具を揃えれば組立はできる訳です。パラッドでは、簡単な塗装設備も新設しました。工場改修や組立指導となると、またいくつも物語があります。これは別途の機会にゆずりましょう。

 追加分とはいえ、指定工場と早期に提携ができたことは大変なことだったのです。完成車は輸入禁止ですから提携できない他社に先駆けて市場を開拓できるわけです。そこで、あとはいかに輸入資金を調達しインドネシア全土に販売網を巡らすかとかいう課題が焦点になったわけです。トヨタは中国系のパートナーと販売の合弁会社を設立することが認められました。

 われわれも合弁会社方式をいろいろと模索しましたが、製造会社なら認めるということで、いきなり合弁会社を設立する方式は断念しました。組立もこれからという時ですし、販売も見通しが立たない段階で巨大な資金を必要とする製造会社の設立は将来の課題として、まずは小さな販売会社でスタートすることにしたのです。それでも4年後くらいには製造合弁会社まで行ってしまったのですから、工業省のスハルトヨ総局長の慧眼と熱望は大したものです。

 これらの進出方針を決める上で大きな選択が2つありました。一つはパートナーをインドネシア系(プリブミと総称されます)にするか、中国系にするかという選択です。それに、資金手当のリスクをとり販売方針も自分で決めるか、パートナーにすべてを任せるかの選択です。三菱はプリブミをパートナーとして選びトヨタは中国系を選んだのですが、初期の段階で資金のリスクを取ることを選択した両者がずっと業界でトップ1位と2位を占めてきたのは、その選択がよかったのでしょうね。

 併行して市場調査をしたり販売開始の準備をしていたのですが、 000-0022号に「急性肝炎でばたば倒れる商社員」として書きましたように、私自身が急性肝炎に倒れ、お師匠さんの中村敬止先輩が急遽ジャカルタ入りをして計画を実施に移したわけです。ニューマルワ1970モーターズ社のチーフアドバイザーとして中村さんが指揮をとって成功をした物語は今後もときどき登場させます。

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