自動車輸出物語 

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記載日付:2001年7月25日
ライター:鈴木富司
番号:000-0029
タイトル: インドネシア自動車市場開拓初期物語 その2

浅井部長がジャカルタ出張から戻ってからの話には集中して聴き入りました。中でも興味を引いたのが、ISC社のハシムニン社長のことでした。凄い男だというのです。とても、君たちには交渉なんか出来ないなというのです。それだけで、
本当に会いたくなってしまいました。どんな男なのだろうと興味津々でした。

その機会は意外とはやくやってきました。1969年の4月にインドネシア工業省にプロポーザルを提出するためにジャカルタに出張をしたのです。そのときに、ISC社の調査に行きました。34歳の誕生日をすぎて間もなくのころと記憶します。駐在事務所の先輩格の駐在員とジャカルタ市内のISC社を訪問して、工場の敷地を見学している時に、一発目をくらいました。「ここは、フォードに使わせる」とか鼻息があらいのです。「三菱はここを使え」と指さす建物は400平米くらいの倉庫でした。それも電気配線もきていないような、汚い粗末な建物でした。

一応事務所に戻りそのハシムニン社長と「会談」になったのです。同氏は勝手にしゃべりまくり、まくし立てるだけで会談という雰囲気ではありません。
しかし、調査マンとしてはそのまま帰るわけには行きませんので、聞くべきことはどんどん質問をしましたのです。そうしたら、同氏がインドネシア語で何かを話したのです。村上駐在員が苦笑いしながら、なかなか翻訳してくれないのです。どうも、大変無礼な言い方だったようです。それでも質問をやめず、工場以外の販売施設も調査させて欲しいと申し入れて了解を取ってしまいました。

早速行動を起こして彼が保有するフォードやフィアットの販売施設を訪ねて歩き「ドクターハシムニンの許可を頂いている」と言っては、ショールームから、事務所、修理工場、部品庫などの写真を撮りまくりました。現場の責任者は困ったようです。社長の指示がでていないからと、本社に電話をするのですが、当時は電話事情が悪くつながらないのです。それをいいことに写真はダメという指令が届く前に、社長の名刺を見せて許可は貰っているのだから、見せないと後で社長にしかられるよと、さっさと写真に収めてしまいました。確か、4カ所くらいあったと思いますが、こういうのは先手必勝です。何しろ、「あの若造はうるせー、女でも抱かせて静かにさせろ」というような暴言を吐いた社長にカチンときていたので、強引に調査を続けたわけです。

それにしても、あのフィアットの部品庫で見た光景は忘れません。街にほとんど車が走っていない時代に、膨大な部品の在庫があったのです。部品棚がずっと並んでおり、向こうが見えないくらい膨大な量だったのです。フィアットに騙された不良在庫なのか、生産中止を見越しての思惑買いなのか、あるいは援助資金が化けていたのかも知れません。

工場もひどいものでした。大型プレスと旧型のジープのボデーがそっくり生産できる型や治具が揃っているのです。しかし、本国ではその旧型の部品は生産中止になっているので、ボデーだけつくっても車にならないというのです。欧米のやり方はひどいものがあります。買いたいといえば、すぐ使えなくなるものでも投資させるのです。

無礼な暴言を浴びたからというわけではありませんが、私のレポートはISC社との提携はしない方がよいというものでした。トヨタはガヤモーターを選び、日産はインメルモーターを選ぶという流れでした。結局ISC社は一番の老舗であり、沢山の欧米のメーカーの代理店をしていたにもかかわらず、われわれ日本勢が生産を始めても、もたもたしていましたね。あの工場は何に使われたのでしょうか、その後全く消息を聞いていません。

インドネシアの自動車界の帝王と言われたドクターハシムニン社長はあの若造が、その後自動車業界のトップシェアーで活躍することは予想もしていなかったでしょうね。無礼な暴言も許すことにしましょう。

さて、限られた指定アッセンブラーは、他社が提携してしまった。三菱といすゞはどうなる。その三菱といすゞの間にもいろいろと波乱がありました。次回はそういう物語にになります。

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