自動車輸出物語 

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記載日付:2001年7月11日
ライター:鈴木富司
番号:000-0028
タイトル: インドネシア自動車市場開拓初期物語 その1

それは三菱商事ジャカルタ駐在員荒牧泉氏からのテレックスで始まりました。1968年10月頃のことです。スハルト政権になり自動車国産化を目指した動きが出てきたのです。法整備も行い投資を奨励して産業を興そうとの意欲的な施策でした。当然、その政策にそって投資を行ったブランドのみに輸入を認めようというわけですから、乗り遅れたら市場から閉め出されてしまうわけです。少なくともわれわれは、そう認識したわけです。それまで、三菱重工は駐在員を派遣してジープを直接ユーザーに販売したりして、特に代理店は設定していませんでした。

三菱商事としては、タイ向けいすゞ車で大成功をしていたものですから、次はインドネシア市場だと機をうかがっていたのです。いすゞ車と三菱車の両方を持ってインドネシア市場を開拓しようとの思惑がありました。初代自動車部長であった浅井将部長の動きは早かったですね。バネがはじくように、その1通のテレックスに反応をしたのです。その頃の商社の部長は非常に偉かったですから、通常は部下を先行して派遣するとか、すくなくとも事前に相当現地とやりとりをしてから出かけるのが通常でした。それを、2〜3泊の強行軍で出張をしたのです。何しろ、当時は香港、バンコック、シンガポールを経由する各駅停車の便しかない時代です。異例な出張でした。それだけでも、インドネシア市場を重視していたことがお判り頂けると思います。

その頃の私は、無任所的に中古車の輸出を研究していました。それまで、入社以来花形のタイ向けいすゞ車の担当者として7年間を過ごしていましたし、早く海外転勤をしたいなという気持ちでおりました。それが、浅井部長が帰国するや、いきなり「もう、中古自動車の輸出はやめた。次は待望のインドネシア市場開拓だ」と担当を命ぜられたのです。まだ、商売の見込みは全くないのに、専任で市場開拓をすることを仰せつかったわけです。毎日のように、ジャカルタとテレックスの往復がはじまりました。浅井部長、桜井部長代理という、自動車部の幹部と鳩首会議を続けました。すごく、楽しい充実した時期でしたね。

1969年1月16日だったと記憶します。事前に入手した情報どおり自動車基本法ともいうべき法律が出されました。ジェネラルアセンブラー5社が指定されました。どこかと提携をして組立をしないと輸入を認めないということになったのです。それも、一応、工場らしいものがあるのはジャカルタのISC社とガヤモーター社、それにスラバヤのインメルモーター社の3社のみでした。そこに世界中のメーカーが提携の申込みをしたから大変です。そういう状況下でジャカルタがよいか、スラバヤがよいかなどと、何種類ものシミュレーションを行って表をつくり、上司と議論をしたりメーカーに説明をしたりしておりました。当然、堂々巡りです。市場の大きいジャカルタを選べば、競合他社と提携先の奪い合いになるわけですし、スラバヤを選べばいろいろとハンディキャップがあるわけです。後年、ジャカルタに4つも組立工場を建て、スラバヤにも1つ建てたときは、この最初のときの議論が大変懐かしく感慨深いものがありました。

1月16日の法律をフォローする形で、つぎつぎに工業省令が発せられました。人なつっこい顔をしたスハルトヨ総局長のところには、面会者があとを絶たないほど、押し寄せました。その省令の解釈をめぐって駐在員との間でテレックスの往復を重ねたわけですが、困ったのは、ほとんどの省令の末尾に、「この省令に矛盾が生じた場合には適宜修正をする」という文言がつくのです。ハンコ行政の日本で育った者には判らない苦労です。アメリカでは公聴会で議論をつくし、矛盾点や実状にそぐわない点を修正する方式ですし、日本では優秀なお役人がハンコを押しながら、徹底的に矛盾の調整をやってくれる訳です。この時は、本気でハンコ行政をうらやましく思ったものです。でも、よくしたもので、慣れてくると判るのです。私はプロの技能としてこの法令はいずれ変更になるか、あくまでこの通りで施行されるかを判断することができるようになりました。これは、こういう難問を通じて身につけた技量だと思っています。何しろ、省令の解釈がちょっと変更しただけで、投資額から機種の選定まで、重大な影響があるのです。

さあ、次はどうやって、世界のメーカーとの激戦に勝ったか、自動車界の帝王といわれた、凄い人物とのやりとりもあります。次号を楽しみにして下さい。

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