自動車輸出物語 

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記載日付:2001年5月16日
ライター:鈴木富司
番号:000-0024
タイトル:ユーザーの独特の使い方と陸運法規の支えで97.5%のシェアーを実現

トラックは仕様によって、輸出の可能性が全く異なるものなのです。海外を旅行された方は気づかれておると思います、アメリカでは日本で走るような中型や大型のトラックはほとんど見かけないでしょう。小型車か超大型車の世界ですよね。日本ではあの有名なベンツやボルボの超大型トラックも全く走っていません。

それぞれの市場でのお客様の習慣と陸運法規で定めた仕様による制限が大きく影響するのです。昔自動車輸出を始めたころは、引き合いがあると、まず左ハンドル地域か右ハンドル地域かを確かめたものです。日本のメーカーは驚くほど寛容に多機種にわたって輸出用の左ハンドル車を準備して対応していたのです。これは採算を度外視した会社の方針だったと思います。大分年月が流れてアメリカ製のモーターホーム(いわゆるキャンピングカー)の輸入を少し手伝ったことがありますが、驚きました。アメリカのメーカーは頑として右ハンドル車を開発しないのです。あの広幅の車体を左ハンドルで運転するのは無茶な話です。更に、家族が乗り降りするのが道路側になってしまうのですが、一向に気にしないのです。そういうアメリカのメーカーの態度に接して、日本のメーカーの凄まじい熱意と努力を改めて感じたものです。日本の社会全体が外貨を稼ぐ意義を意識し、応援ムードで輸出は進められたということなのです。

左ハンドルの問題だけではありません。それぞれの市場のニーズや特殊事情に本当に対応したのでした。それでも、運、不運があるのです。その市場にマッチするか、マッチするようにお客や陸運局をし向けるかもわれわれの努力の一環だったのです。具体的な面白い物語をご披露しましょう。

戦後の自動車輸出ではじめて本格的に軌道に乗せたのは私も参画したタイ向けのいすゞのトラック輸出だと自負しています。仕様がタイの国情にぴったりだったことも幸いしました。何しろいすゞの名車と言われたTX550という6トントラックですが、タイでは14トンも積載して使われていたのです。それも、リヤーボデーは勿論のこと、運転座席、運転台の屋根まで、分厚いむくのチーク材で作ってあるのです。軽量化などは、全くお構いなしです。何度も快適なスティール製の運転台を普及させようとしたのですが、無理でしたね。独特なデザインの見るからに頑丈なボデーが好まれたのです。現地架装の12000リッターのタンクを積載したタンクローリーまで現れました。

一方、マレーシアでは重量制限が厳しくて日本の大型トラックは全く入れませんでした。それこそ、見るからにひ弱なイギリス製のトラックが幅を利かせていました。どんな努力をしても、全く入り込めない市場でした。さすがに、タイでも過積載は問題になり、ある時、軸荷重が制限されました。いすゞの対応は素速かったですね。市場を確保する為にTWD80という3軸の10輪車を超特急で開発したのです。最後尾の車軸は動力が伝わらないデッドアクセルにして、価格の上昇を抑えたのです。これも評判が良くて良く売れました。この新型車が市場に出回る前のことだったと思いますが、ユーザーはいろいろなことをやってくれました。普通の2軸のトラックの後ろに見せかけの、それこそデッドアクセルをぶら下げたのです。私も実際にバンコックの街中で見たことがあるのですが、タイヤが地面に接地しないで走っているのです。時々、こすれて回る程度でしたね。重量検査の場所までくるとジャッキみたいな棒を突っ込んでタイヤを接地させるのだそうです。陸運局の係官も大変ですよね。

トラックの輸出で成功するには、市場に完全に合った車を製造していることが先ずは最も重要な要件です。最初は、それほど台数も出ませんから、国内向けに製造している車が、丁度上手い具合にその市場に合致することが重要なわけです。
売れるかどうか判らないのに、いきなりその市場の専用車を開発するというのはできない相談です。丁度同じ頃、同じ課のひとが、豪州向けに三菱の大型トラックを輸出していました。メーカーも商社も大変な努力をしていましたが、余りにも使用方法が違うことから、本当にご苦労をされていました。特に、現地で販売を担当した先輩はご苦労をされたようです。日本では普通のトラックとして開発したものを、少し改造してトレーラーを引っ張るトラクターとして使うわけです。それも日本にはまだ高速道路が無い頃開発したものを、数千キロも走る高速走行用に使われるのですから、トラブルが発生しない方がおかしい位です。

その頃はメーカーでも商社でも、担当地域毎に人員配置が決まっていましたから、適した車がないといって止める訳にはいかないのです。豪州担当は豪州のことだけを考えて、無理を承知でとにかく努力をするわけです。どの地域を担当するか、その市場にあった車があるかによって結果は全く違うのです。運、不運の世界ですね。

若い時にはタイの成功に気を良くして、世界中にいすゞのトラックを売りたいと考えたものです。何しろタイでは、それまでのベンツを駆逐して97.5%のシェアーを誇ったこともあるのです。組立工場も率先して建設して、他の追従を許さなかったのです。そのため、世界中どこに持って行っても売れると錯覚をしたわけです。やはり、アメリカはだめでしたね。厳然としたバリアーがありました。まあ、外国勢が支配している市場に日本勢が割り込むというのは、難しいことで、タイは例外的な市場だったようです。

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