自動車輸出物語 

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記載日付:2001年4月18日

ライター:鈴木富司

番号:000-0022

タイトル: 急性肝炎でばたばた倒れる商社員

1969年の頃の物語です。インドネシアに2ヶ月半ほど出張して市場調査と進出構想を模索していました。そのころ、木材部はわれわれよりも先輩格で進出を実現していました。何人も駐在員や出張者を派遣しておりました。弁護士を紹介して貰ったりいろいろな助言を頂いたものです。こういうところは総合商社の強みですね。

あるとき、その木材部の偉いひとが出張中に急性肝炎にかかり現地で高熱を出されたのです。その内に、他の商社のひとも何人も急性肝炎にかかったという話を聞かされたました。当時は聞いたこともない病名ですし、その劇症に驚いたり恐れたりしたものです。今から31年も前のことであり、まだ30代の働き盛りのころですから、まさか自分の身に起こるとまでは想像もしていませんでした。

今でも鮮明に覚えていますが出張から帰って土曜出勤をした午後、銀座の松坂屋デパートを歩いているときのことです。不思議な現象が起こりました。ショーケースを見ながら歩いているときのことでした。ガクッという感じで身体の力が抜けたのです。たまたま傘を持っていましてね、それを杖代わりに地下鉄に急いだのです。銀座四丁目の地下鉄の階段をやっとの思いで歩いたことも覚えています。その脱力感は猛烈なものでした。あとはどういう経路で帰ったのか全く覚えていませんが、千葉県の稲毛の自宅にはとにかくたどり着いたようです。大変な高熱でもう動けませんでした。

すぐに劇症肝炎だということは判りました。ジャカルタで聞いていた先輩の症状とよく似ていたからです。コーラのような色の小便がでると聞いていたのですが、あの凄い色を見たときのショックは強烈でした。お医者さんに往診をして貰いました。川島先生という年老いたとても素晴らしい先生でした。何でも、当時は肝炎は日本では茨城県のある地域にしかない特殊な病気なのだとの説明がありました。まだ、A形とかB形とかの区別もないころでした。

即時入院を指示されましてね、毎日点滴の日が続きました。残念でした。発病した丁度その日にジャカルタ転勤が役員会で決まったと知らせを受けたのです。当時は、海外転勤が決まると「おめでとうございます」と言われる雰囲気だったのです。入社後何年で海外出張をしたかとかが話題になり、海外転勤が勲章のような時代だったからです。経済的にも給与が全く違うので貧困から脱出することも意味を持っていたのです。そのころの肝炎は永久に治らないという感じでした。上司が病院までやってきて、海外転勤に耐えられるか確認し、転勤の話は消えてしまいました。急遽、ベテランの中村敬止さんに転勤命令が下ったのです。バンコックに何年も単身赴任をして、いすゞの市場を大成功に導いたひとの登板です。本来なら私がつゆ払いをしてからの登場のはずが、いきなり大先輩が先に行くことになってしまったのです。個人的にも、中村さんにまた単身赴任を強いる結果になり申し訳ないことでした。インドネシア市場開拓という仕事の面からいうと、大物の登板で大成功をしたわけですから、複雑な気持ちです。

最初の手当が良かったのか、幸いにも後遺症はないようです。もう、営業には復帰できないと超悲観をしていたのですが、その年の7月には会社で二晩も徹夜をするくらいまで回復をしていました。それに、中村さんの助言もあり、労災保険の適用が認められ、公傷扱いになりました。賞与も減りませんでしたし差額ベッドの費用も保険で出て大変助かりました。ジャカルタの病院に手紙を書き出張中に感染したことを証明する書類を貰ったりした申請書づくりも思い出の物語です。それに、潜伏期間中に一時帰国で日本に戻り発病したわけですから不幸中の幸いだったのです。

働き盛りの最前線の商社マンが次々に倒れたのはアメリカのその筋が工作をしたに違いないと考えたりしました。本当に真剣にそう疑ったものです。何しろ、欧米の市場であったところを侵食しはじめたわけですしね。彼らには絶対に真似ができないような努力をしているという自負があったからでしょうね。

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