自動車輸出物語 

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記載日付:2001年4月4日
ライター:鈴木富司
番号:000-0021
タイトル: あんなに驚いたことは滅多にありませんよ

1984年、85年頃は中国から怒濤のごとく自動車工場をつくってよとの要請が参りました。新しく自動車工場をつくるなどというプロジェクトはそうあるものではないのですが、その時にはリストをつくって対応するほどでした。何しろ30件ものプロジェクトが目白押しに押し寄せてきたのです。いろいろなルートを通じての要請ですからむげに断るわけにもいかず、できるだけ話は伺いましょうということで対応をしました。それは熱心でした。上海を通過して帰国しようとしたら、空港でずっと待っていて日曜日というのに、話だけでも聞いて下さいなんてこともありましたね。

ある時、雲南省の中心都市、昆明(こんめい)に視察を頼まれて三菱自工の課長さんと出かけました。相当内陸部ですから、とても自動車や部品を製造して日本に輸出するというようなことは無理なことは判っていましたが、先方はある確信に近い「有利な条件」があるという思いがあり、現地視察をすることになったのです。飛行場からバン形の車にのって大分傾斜の激しいところを登っていきました。こんなところに自動車工場を本気で建てるのという感じで車に揺られていったのです。そうしましたら大きな縦形の木の看板がぶら下がっている門を通過しました。げぇ!!という思いで、一瞬何が何だか判らない感じでした。案内のひとは、それこそにやにや笑って「さぞ驚いたことでしょう」という顔をしているのです。何て書いてあったと思いますか。立派な大きな看板には「昆明監獄」と墨書してあったのです。

気づいたときには高圧線をとりつけた高い塀で囲まれた敷地内に入っていたのです。見るものは異様な感じでした。大きな鉄釜がならんでいる調理場や囚人がそれこそ何百人も食事をしているところも通りました。整然と寝具がならんでいる女囚の部屋も案内されたのです。監獄長に案内された「視察」でしたがやはり不気味でしたね。それに「監獄内の自動車工場」は印象強かったですね。たしか、ジープ形の車をつくっていたと思います。土間でアルミを鋳てエンジンを1個ずつつくっていました。しかし、新工場をつくる敷地は見あたらないのです。何でも、その敷地にある段々畑を整地して工場にするのだというのです。

監獄長が丁重に食事に招待をしてくれました。言っては失礼なのですが、粗末なというか、あまり見たことがないような小さな手作りのテーブルと椅子でした。今でも思い出すと何だか身体の重心がふらつくような感じです。でもお料理は美味しかった記憶です。そこで、熱心に誘致を受けました。話の中心は他の工場にはない、大変なメリットがあるということでした。はっきりは申しませんでしたが、人件費が圧倒的に安いということを認識させたかったようです。まずは、組立から入り、いずれ生産をして日本や東南アジアに輸出をしたいという思いを話されるのです。組立部品をこの内陸部に日本から運び、段々畑の工場で組み立てたら人件費がゼロであっても臨海地方には太刀打ちできないのは明らかです。世界の自動車産業の実態を全くご理解されていない監獄長殿に説明をするのは、本当に難儀でした。

国中が新しいプロジェクトを求めて動き出したときの、あの熱気と発想の自由さには驚いたものです。南部の港なら輸入がゆるやかだからとて、南部で大型トラックのキャビンを製造し、北部に鉄道輸送をしてトラックにするというプロジェクトも提案を受けました。あの空気の固まりみたいな運転台を何千キロも鉄道輸送をしようなどという発想には、何でもありの中国市場と思ってはいましたが驚きましたね。その中でいかに地道に自動車技術を移転するか、東南アジアでの経験をフルに活かして貢献しようとあるプロジェクトを立案したことも思い出のひとつです。

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