自動車輸出物語 

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記載日付:2001年3月21日
ライター:鈴木富司
番号:000-0020
タイトル: カロッサリーというすごいボデー屋さんの話

インドネシアにはカロッサリーと呼ぶ自動車のボデー屋さんが沢山ありました。もう、抱腹絶倒です。板金技術者が見たら気絶するようなボデー屋さんなのです。コンクリートも打っていない土間で、子供が自転車の空気入れのポンプを押しているすぐ脇で職人がくわえタバコで・・・・。その圧搾空気をスプレーにつないで優雅にボデーの塗装をしているという光景です。われわれが丹精こめてつくりあげた小型トラックのキャビンやリヤボデーを無惨にもアセチレンで焼き切ってしまい、裸シャシーが並ぶという、スクラップ置き場みたいな工場なのです。ショールームに並ぶ完成車はすごいですよ、ピカピカの豪華なヘッドライトやベンツのマークを付けた豪華絢爛な「ミニバス」という具合です。勿論、中身は三菱コルトです。

多分カロッサリーという呼び方は、オランダ時代にできた馬車の製造工場ではないかと思います。最初は小型トラックに幌を掛けたり、板を向かい合わせに並べて小型の乗り合いバスをつくったりしていたのです。木製の頑丈なボデーもありましたね。幌と違って屋根の上にも荷物が載せられるメリットがあります。重いのが難点ですね。その内に幌がスチールになり、トラックの荷台は取り外してシャシーの上にボデーを作るというように発達していったのです。地方によって、その発達過程はずいぶんと違いました。多分、地方の陸運局長さんのいろいろな采配の違いや、その土地の好みも反映しているようです。東ジャワでの発達が顕著でした。最盛期には100軒くらいのカロッサリーがあったとも言われています。仕掛かり中の車が2〜3台の道ばたの小さな工場から、100台も並ぶ超大型の工場も現れました。プレスなんて使いません、殆ど人力です。子供も随分いましたね。ドンドコ・カンカン板金の職人さんがいろんな手工具を使ってボデーの丸みを叩き出すのです。騒音の渦です。

現地の責任者である中村敬止チーフアドバイザーから、何とかカロサリーに対して技術指導ができないかという問題提起がありました。日本のメーカーさんにも視察をして貰いましたが、その技術の乖離に手のつけようがありませんでした。そこで、元日産自動車のデザイナーでキャンピングカーを作っていた柳沢さんという方にインドネシアに駐在をしてもらい、地方に点在するカロサリーを巡回して貰うことにしたのです。もう、大分ご年輩の柳沢さんにはきつい仕事でしたが、日本の昔の技術を活かす道でもあり、地道な技術指導をして貰いました。

最初の頃の品質はひどいものでしたね。特に錆が出やすいのです。格好は綺麗につくるのですが、塗装の下地処理も何も技術的なことは考えていませんから、1年もしない内に鉄板に穴が開いてしまう代物でした。窓には生ガラスを使うし、重量バランスも何も考慮していませんから、事故も多いしひどいものでした。しかし、その進歩の早さには目を見張るものがありました。競争というものは進歩をもたらすものです。ランプなどもいろいろ付けていましたね。どんどん豪華になっていきました。さすがにシャンデリアこそついていませんが、キャバレーのような豪華絢爛な内装の車も現れました。でも、インドネシア人のセンスは結構いいのですよ。タイよりもデザイン的にははるかに洗練されていましたね。

私自身もその進歩に貢献しました。今では乗用ワゴン車は一般的になりましたが当時の日本ではバンを自家用乗用車に使うなどという発想は全くなかったのです。1976年に私がインドネシアに赴任して、家族用に自家用車を買う必要がありましたので、カロサリーに頼んで特注のミニバスを作らせたのです。三菱自工の黒水課長さんに話したら大いに笑われました。どうも、魚屋のバンをイメージされたようなのです。「まる富印の車」ですかと言って笑い転げるのです。小型トラックをベースにした床の高い改造車ですから無理もありませんね。その頃はインドネシアでも、それほど豪華なミニバスはありませんでした。リクライニングシートを後部に付けたり、ステレオをドライバーの後ろにつけたりして、運転手付の自家用車に仕上げたのです。そのリクライニングも見よう見まねの手作りでしたから格好だけで余り具合がよく無かったですね。乗用車は輸入禁止で非常に高価でしたし、商売上の実験車としてわが女房に使わせたのですが、パーティーなどにいくと乗用車より格が下と見られて恥ずかしい思いをさせたようです。

今では誇りに思っています。そのすぐ後に、三菱自工の久保会長がデリカのバンを改造してご自身の自家用に使われたのです。週刊誌でとりあげられたりしましてね、当時はやはり珍しかったのです。それからでしょうか、日本でもデラックスなワゴン車が一般的に自家用車として使われ出したのです。開発に携わった車屋として、先見の明があったと自慢しているわけです。

それにしても、規制がほとんど無かったインドネシアの工場群は、それは
自由に活発に競争をして発展を遂げていきました。錆びたり、事故を起こしたりいろいろな弊害はありましたが、自由を謳歌したひとたちを見てくると皆が気づいていない日本の規制社会の弊害が目に付くわけです。

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