自動車輸出物語 

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記載日付:2001年3月7日
ライター:鈴木富司
番号:000-0019
タイトル: 自動車輸出草創期における稟議書類

会社としてリスクの伴う決定をするときは、社内関係部署の同意と役員の許可を得る手続きをするのは、今も昔も変わらないと思います。会社の規模も小さくリスク負担を極端に嫌う商事会社において、海外で自動車の販売事業を行うということは大変なことだったのです。現場が大変なことは勿論ですが、本社の社内手続きも、それはある種の戦いだったのです。まして、商事会社の社内で工場を建てたり販売店に部品庫をつくるための融資をするというような案件を説明することは至難の業でした。今では、考えられない物語があるのです。

私がタイ向けのいすゞ車を本社で担当した7年間は、諸施策を矢継ぎ早に打った時期でもありましたので、稟議書が30件にもおよびました。同時に会社の規模も急成長をしていたし、組織も肥大化の方向に向かっていました。最初のころは、1週間で決済が下りていたのが、課題が難しくなったこともあり、長いのは96日も掛かりました。今でも日にちまで覚えているのは当時としては、難問だらけで許可までに長時間を要した案件だったからです。バンコックに土地を購入して本格的な輸入販売拠点のサービスセンターを建てるという計画でした。必要資金の2億円は輸銀の融資を受けるという、商社業界でもはじめてのものでした。

書類は沢山の関係部を回るのです。さすがに順序は忘れましたが、総務部、人事部、審査部、財務部、主計部、業務部という具合に、全く自動車商売のことを知らない部門を回るわけです。私の日課は毎朝、書類を追って滞留している部を訪問するというものでした。難関は、審査部と財務部でしたね。当時の財務部には天皇と言われた怖い財務部長がいましてね、担当部局が質問を恐れて書類を止めてしまうのです。課長さんに会いに行くと「鈴木君、本当に計画どおり売れるのかい」という調子です。何度聞かれたか判りません。

いろいろな手も打ちました。いすゞさんに頼み込んで当時最新鋭の藤沢工場の見学会を催しました。関係部の関係者を大型バスに乗せて案内をしたのです。帰りは豪華な宴会でしたね。何しろいすゞさんにとっては、ドル箱の大型トラックが纏まって毎月何十台と売れる市場の諸施策を審議する部局なわけですし、その資金も手当てをする関係者というので、丁重な扱いでした。流れ作業の自動車工場を実際に見て貰ったことは、本当に良かったと思っています。当時は、まだ日本の自動車産業自体が危ないと思われていた時期なのです。本格的な産業に変身したなという実感を持ってもらい、その後の審査にも理解を得られたわけです。

30件の申請の中で1件は条件付許可、1件は完全に不許可でした。今では笑ってしまう申請内容でした。関係部の部長さんを全員、バンコックに招待(?)して視察をして貰いたいというものでした。発案者は私です。「心配なら現場を見なさいよ」と言いたくても言えませんからね。よくも上司が申請することを許可したものと思いますが、当時は真剣でしたし、切実だったのです。不許可の理由が傑作です。人事部長が「飛行機でも落ちたら大変なことになる」との意見をつけたためだったと記憶します。あるいは、話を面白くするために、話している内に、記憶としてインプットされたのかも知れません。今は昔の物語です。

他社では稟議書と言っていたようですが、「経伺書類」とか「経伺」といって発音は「けいし」と言っていました。最初は縦書きだったですね。そこで、体裁は結構重要な要素でした。私は字が下手くそで非常に困ったのですが、何と私のアシスタントに配属された水谷さんというひとは江戸時代の祐筆の血筋を持つ早大卒の才媛でした。見事な字で大いに自動車輸出に貢献をしてくれました。

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