自動車輸出物語 

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記載日付:2001年2月7日
ライター:鈴木富司
番号:000-0017
タイトル: 自動車輸出の販売ルートと商社の立場(2)

販売店を指定するときに問題になるのが、独占権を与えるかということと、専売店にするかという問題です。要するに他のルートからどんどん入ってしまうようだと部品を持ったり宣伝をしたりしたくないと販売店側は言うし、うっかり任せると権利だけを握ってなにもしないということになります。また、専売店でないと利益の上がる人気のある他社の車ばかりを売って、名前も知られていない日本車は売ってくれないわけです。しかし、それでは専売を強要できるかというと、それだけで食えるような車を売れる値段で供給してやらなければならないわけです。資本があり販売力もある販売店は欧米車を扱っていて、日本車にには見向きもしてくれないという事情があったのです。日本車を専売で扱いましょうなどと申し出のあるのは、山師的な人が多くてうっかり独占権を与えられ大変なことになるわけです。そういう状況下で販売店を指定せねばならないメーカーの輸出部はそれは、それは苦労をされたわけです。日本車の人気が出てきて、メーカー側が販売店を選べるようになった時には契約でがんじがらめで、いかにそういう山師さんにお引き取りを願ったかも物語がある筈です。一方、販売店側が苦労に苦労を重ねて日本車を有名にしたらあっさりとメーカーより販売権を取り上げられたという物語もいろいろあるわけです。

そんな苦労の真っ最中にタイ向けのいすゞ車の販売に関連して大変な英断があったのです。商事会社の機械部が従来得意にしていたのは、船舶や車両を纏めて輸出したり、発電器やトランスを輸出するというように、政府や公団、大会社相手にした仕事だったのです。大衆を相手に販売店を設定して量産品を売るという発想は、全くの新分野の事業だったわけです。それも、海外での話です。何と、三菱商事自身が資金を手当てし専任の担当者を派遣して、タイでのいすゞ車の総販売店になり、傘下に販売店を設定してトラックを一般の輸送業者に売ろうということになったのです。

当時の商社は、まだ体力がありませんからリスクを取らずにお客を見つけてはメーカーのリスクで販売をするというのが常道でした。ですから商社無用論が出たり、口銭泥棒というような悪口がでていたのです。勿論、当時は渡航するにも、電信でやりとりするにしても、今では想像もつかない経費が掛かりましたし、メーカーには判らない外国取引としてのリスクを負っての努力があったのですから口銭泥棒は言い過ぎです。いずれにしても、そういう状況下で三菱商事は海外での自動車販売に踏み出したのです。昭和31年1956年のことです。日本において外車の輸入販売をした経験があったり、いすゞの幹部と三菱商事の深い信頼関係があっての
ことと思われます。これを主導したのは、後に初代自動車部長になった浅井将さんです。これは、商社の自動車輸出の大きな第一歩でしたし、45年も続いている大成功をした事業ですので、別途稿を改めて書くことにしましょう。なお、日本における外車の代理権を梁瀬自動車に譲って撤退したなどという物語は、私より一世代前の物語です。

商社の自動車輸出については、大きく分けて3つの方向があります。上述のように現地の販売店や工場を経営して、自らのリスクで輸出をする方式と現地の輸入販売店を紹介して輸出関与権を得て輸出事務を行うとともに、現地の情報収集や各種便宜を提供して口銭を得る方式です。世間一般には、この後者の方式が商社の仕事と理解をされていると思います。それに、2万台もの乗用車を公団に売るなどという、特殊な大口の商談を纏めるというのもあるわけです。ここで面白いのは、リスクを負って主導的役割を演じながら自らが決定を行う業務を担当する人と、もっぱらメーカーさんの決定に従い情報と便宜の供与をするのを主業務とする人では人柄まで違ってしまうということです。どうも、入社以来ずっとプライドある仕事に従事して、2億ドルもの債権を背負って真剣勝負をしていると、発言も少々過激になるようです。一方、いつも口銭の引き下げを言い出されないようにと、何かと気を使わなければならない立場では態度にも違いがでるのは当然ですね。いろいろな立場の人と出会い、共感したり反発しあったり今ではすべて懐かしい思い出です。

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