記載日付:2001年1月24日
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ライター:鈴木富司
番号:000-0016
タイトル: 自動車輸出の販売ルートと商社の立場(1)自動車の販売にはアフターサービスが必要であることもあり、メーカーとしては
輸出をする先の国ごとに総販売店を指名して輸出をするのが通例でした。現在では
ほとんど輸出販売ルートは決められ、工場まで海外に建設され、更に複雑に海外
メーカーとの提携やら、外国資本に乗っ取られているわけですから、物語でも
「昔々」がつく物語になってしまいますね。私が入社したころは、まだその販売ルートなるものがあまり決まっておらず、
悲喜こもごも、販売ルート指定の物語がいくらでもありました。今では想像もできない
戦国時代であったとも言えます。何しろ、輸出適格車を持たないのに輸出をせねば
ならない輸出課員のあせる気持ちにつけこんだ、外国からの様々な話が持ち込まれる
わけです。商社は、その話を持ち込む先兵でもあったわけです。想像してみて
ください。貴方が輸入商売をやるとして、現在名も知らないインドのメーカーの
自動車の販売店に名乗りを上げて部品を在庫し、サービス拠点をつくり、
ショールームを建設して、その車のセールスマンを育成しますか。それも外貨を
取得して輸入をしたり、投資まですることが考えられますか。そういう状況で
販売店を指定して、車を輸出することに従事していたのです。現地調査と言っても、
簡単に海外出張ができないときです。商社の駐在員といっても、お米の専門家で
あったり、繊維の出身だったりするわけですし、その市場の把握などというのは
期待できないのはお判りでしょう。そこで、最初はバス会社などから持ち込まれる大口の商談に飛びついてやっていた
ようです。チリに三菱日本重工の大型バスを輸出したことなどは、もう殆ど知られて
いないでしょうね。それも、当時の日本製エンジンはだめということで、カミンズの
エンジンを輸入して搭載してから輸出したというのです。これは、私が入社する前の
物語です。賠償も大きな商売でしたね。インドネシア向けの部品の手続きをしましたが
詳しい賠償の手続きは忘れてしまいました。このようにして、私たちの先輩の時代
には、メーカーさんにいろいろな情報を届け、この市場はどこどこの商社が
よくやるから、この国はそこに任せようなどという時代でした。三菱商事の場合、
戦後進駐軍により解体されて沢山の小さな商社に分かれていましたのが、合併が
進むにつれて、同じ市場で2社のメーカーを扱うわけにはいかないので、だんだんと
整理をされていったようです。入社したときは、いすゞ担当、日産担当、新三菱と
三菱日本重工の担当という具合に担当者で分かれていましたね。私は、タイ向けの
いすゞ車が急激に伸びていたときなので、いすゞの担当に配属されました。
日産車の最初のころは随分と先輩達が貢献したようですが、徐々に商社は排除されて
いきました。昭和11年に僕がダットサンをはじめて豪州に輸出したんだという
先輩のお話を聞いたこともあります。持ち込まれる商談もいろいろあって、先物買いで輸入代理権だけをとっておこうと
いうのもあれば、今から考えれば欧米のメーカーが日本車の進出をくい止めるために
アジアの販売店を使って良いことづくめの話で独占権を取らせて、そのままほって
おいたというのもあったと思われます。それから、自家用に安く仕入れるために、
代理店になりたいとアプローチをして、最初のロットを輸入したらそれで終わりと
いうのもあったようです。私も詳しいことは知りませんが、新人の頃、
フィリピン向けにいすゞエルフを30台だけ輸出手続きをしたことがあります。
あと何にも言ってこなくなり、立ち消えになったのを覚えています。この場合は、
独占権を与えていませんから、実害はあまりありませんでしたが一寸、
いすゞさんには格好が悪かったですね。いろいろありますが、当時の雰囲気を少しでも感じて頂ければよいかと思います。
次号に続く