自動車輸出物語 



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記載日付:2001年1月10日
ライター:鈴木富司
番号:000-0015
タイトル: 私が自動車輸出を担当することになった原点

入社以来27年間自動車輸出を担当し、それも殆どがアジア地区での市場開発でした。工場を10カ所も建設することになったのは、まさに驚きです。幸せです。何故って学生時代にわれわれの技術の力で「アジアに繁栄を」というスローガンを掲げて真剣な運動を展開していた経験があるのです。学生時代はアジア、アジアでほとんどの時間を費やしました。授業にも研究室にも余り顔を出さず本当にその活動に没頭したのです。よくも、卒業ができたものだと友人も本人も驚いていたほどなのです。

ですから、その活動「アジア学生技術会議」実行委員会のメンバーとしての活動は私の自動車輸出の原点であり、この自動車輸出物語にご披露してもよいと考えました。

時代はずっと遡り昭和31年、1956年のことです。まだ、東京工業大学機械課程の1年生のときです。英会話のクラブのESSに属していたのですが、その4年生の先輩がとんでもない計画を始めてしまったのです。松下電器に就職の決まっていた林義雄さんと、富士通に決まっていた江口宏明さんです。最初はアジアの留学生を集めてトヨタ自動車などを見学する会であったのですが、話が膨らむうちに、当時国交のない、中華人民共和国の学生2名招待を発案し、電報を打ってしまったのです。そのころ中国は中共といわれていましたが、相互に交流がない状況ですから、大問題になってしまいました。しかし、大学当局は非常に寛大に後押しをしてくれました。一クラブの手には負えなくなり、学友会が中心になり、アジア学生技術会議実行委員会なるものが編成されたのです。私もいつのまにか、そのメンバーになって使い走りのお手伝いやら寄付集めに奔走しました。

先輩達は、国会やら、自民党やら、財界に陳情にいき、ついに中共の学生のビザを取ってしまったのです。その、連絡を代々木の電報局から中国語で打った記憶があります。その時には、すでに学生は香港に出国をして待機をしていたのですから無茶な話しですよね。数字の羅列の電報でした。それが国際連絡のはじめての経験でした。

中共の学生の来日は産業界も随分と驚いたようです。財界の大御所や政治家もその中共の学生に面会したり双方にとって大変意義のある交流になったようです。そのとき招待された人が日本の現実を中国の幹部に報告したり、ずっと日中友好の仕事をしてきたとのことです。航空協定締結や田中首相訪中時に羽田まで迎えにきたことなども、良い思い出になっているようです。現在も日中友好に従事しているとのことですから、あの凄まじい計画に従事した学生としては感慨無量です。

勿論、中国だけではありません、タイ、インドネシア、インド、パキスタンなど9つの国の学生を集めて九州まで9カ所の工場を見学して歩いたのです。私の仕事は、洗濯物を集めて次の宿泊地に運ぶとか、日本語の不自由な学生と英語で話すようなことでし。トヨタ自動車でのある事件などは物語として別途書きましょう。また、そのときに出席した中国の代表と30年後に中国での自動車産業のあり方を論じてプロジェクトを仕掛けたことなども、自動車輸出物語といえるでしょうね。

第2回アジア学生技術会議は私が委員長を仰せつかり実施しましたが、世の中も変わり中国からの参加はありませんでした。こういう活動を通じていやというほど国際問題の難しさと面白さを経験している内に、商社への就職を決めたのです。直接の動機は、上述の林先輩が熱っぽく説いていたのですが、松下幸之助社長の教えとして、今後生産活動が活発になるが、それに合わせてセールスエンジニアの活動が重要になるという話しでした。それで、当時は給料が一番安く無試験で入れる三菱商事を選んだのです。給与で職業を決めるのかと同級生に演説をぶったことも覚えています。商社斜陽論などもあった頃のことです。

大学での専攻は航空と自動車が中心の応用力学コースでしたので、会社も当時最も忙しかった自動車輸出をやっている機械第三部に配属したのでしょう。それ以来27年間自動車輸出に従事したということなのです。


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