自動車輸出物語 

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記載日付:2000年11月1日
ライター:鈴木富司
番号:000-0010
タイトル: 一週間で三菱の名前とマークが全国に知れ渡る

日本で初めてラジオの民間放送が始まり、いち早く大正製薬が大広告活動を行ったことは少年時代の記憶として残っています。初期の広告効果たるや絶大なものがあり、その浸透ぶりは広告担当者でなくとも、われわれ視聴者が実感したことだと思います。インドネシアでもやったんです。中村敬止チーフアドバイザーは、その点ものすごく大胆でした。あっという間に三菱とコルトの名前がインドネシア中に広まりました。想像できますか、ブロック塀のマークやイヤリングに三菱マークが盗用(?)されたのです。それは、格好のよいもの、優れているもののマークになったのです。

ティーザーキャンペーンというのでしょうか、発売前後に期待を持たせるべく、新聞の全面広告を4回行ったのです。何しろ当時の新聞広告は大きくても15センチ四方くらいのものでしたから、全面広告などというのは、度肝を抜かれるわけですよ。それが発売日までに3回も打ったわけです。椰子の木の向こうから2台の車が近づいてくる構図でしたね。毎日それが大きくなるわけです。特大のダイヤモンドマークがついていました。当時はテレビ広告は無かったので、ラジオでもやりました。特別につくらせた三菱の歌を流しました。1日30スポットです。一週間もしないうちに、工業省のスハルトヨ総局長さんも三菱の歌を口ずさんでおられました。われわれへのそれこそリップサービスだったのでしょうが、彼が構想した自動車組立事業がいよいよ実現したので嬉しかったのでしょう。街では、レストランのおねえさんも歌っているんですね。その即効性には本当に驚きました。

カレンダーも重要なメディアでした。中村さんからの指示で吉永小百合さんをモデルにした特注のカレンダーも制作しました。六本木かどこかの、スタジオに1日かけて秋山庄太郎先生の撮影でした。忙しい仕事の合間を都合つけて、私も撮影を見に行きました。途中、何度も衣装や髪型を変えるわけです。その間、秋山先生にばらの写真の作品を見せて貰ったりしていました。目を伏せてぱっと上を向く瞬間にシャッターを押す動作を昨日のことのように覚えています。1971年か72年版だと思います。この特注のカレンダーは人気がでましたねー。どんな田舎に行っても、町の中心の食堂の壁に掛けてありました。お金は掛かるが最初にやると元をとるものです。カレンダーは三菱というイメージができてしまうのですね。それも、素晴らしいものとの印象とともにです。ですから、イヤリングにまで盗用されるのです。本当ですよ、純金であったり、メッキのものもありましたが、三菱のスリーダイヤのマークのイヤリングが宝飾店の店に並んだのですよ。当時日本では
三菱マークを車につけると売れないというようなこともあったようですが、他社の中古車にまで勝手に三菱マークをつけてお客さんが走ってしまうので、参りましたね。

広告と言えば忘れられない面白い物語があります。テレビ広告が解禁されて、コルトのコマーシャルをすることになったのです。まだ、現地撮影はいろいろと問題があって内地で撮影することになったのです。博報堂さんも大変困っておりました。何しろインドネシアの雰囲気を出すこと、それに現地で使っている状況を再現する必要があるのです。現地では小型トラックのコルトの荷台に人間を満載して走っているわけですから、困ってしまったのです。誰かがアイデアをだしましてね、マネキンを使ったんですよ。洋服は着せていたのかなー、とにかく、マネキンを満載しましてね、九州の南端の指宿でシュロの木の間をぶっ飛ばして撮影をしたのです。雰囲気だけ出して、あとは音楽とがなり立てるフィルムになった記憶があります。三菱商事本社で担当していたK-君もその撮影の模様をOBの集まりのときに楽しそうに話していましたね。

私にも経験があるのです。大分時代も過ぎて現地駐在になり、2トントラックのキャンペーンをやったときも、広告がもの凄く効きました、これも面白い物語なのでいずれ書きたいと思っています。

ソ連が崩壊したときも思ったのですが、ここで思いっきり広告費を投入したら、深く浸透できるのにと思いました。今度北朝鮮が市場を開放したときは、だれが広告の一番乗りをするのかなーなんて考えています。あの砂地に水が吸い込まれていくような感じは経験しないと判らないかも知れませんがね。

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