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記載日付:2000年9月20日
ライター:鈴木富司
番号:000-0007
タイトル: 米国に日本のエンジン工場とは本当に驚きだ
いすゞが米国にエンジン工場を持ったとか、GMとトラックの会社をつくるとの新聞ニュースを見ると、自分が携わった物語でも、本当にそんなことがあったのだと思ってしまいます。
私にはひそかな自慢があります。会社に入って仕事が面白くなってきた3年生のころの物語です。三菱商事の自動車輸出の元祖だった当時の機械輸出部の浅井将次長に計画書を提出したのです。その時はタイ向けのいすゞ車の担当だったのですが、米国にいすゞのエンジンを輸出したいという一念から、サンプルエンジンの海上運賃と保険料を負担したいというものでした。当時の金で100万円の予算を組んだのです。同僚からは絶対にそんな予算は許可をされないといわれたりもしました。何しろ、月給が1万8千円か2万円のころですからね。それでも、夢中になって夢を語った姿が思い出されます。この申請はあっけないほど簡単にOKが出たのです。三菱商事の自動車市場の基礎を築かれた浅井さんの勘はここでも冴えていたようです。
DL200(55馬力)、DA120(125馬力)、DH100(190馬力)2台づつ
合計6台でした。これは、いすゞ輸出部の上野山さんが仕組んだものでした。輸出実績が全く上がらない初期の米国市場をずっと担当されていた人です。サンプルをロスアンゼルスの見本市に出したあと、お客様にテストをして貰うという構想でした。ここで面白いのは、米国の市場を全く知らないこともあり、私はDA120に一番期待をしていました。他は生産台数も少ないし競争力に疑問がありました。何しろ日本では、DA120は名機でして、花形の6トン車のエンジンでしたし、タイ向けの輸出でベンツを破ったのもDA120でしたからね。井の中の蛙大海を知らずでした。テスト結果は散々でした。DH100を積んだトラックがデンバーの坂を登るときにバルブが焼き切れてしまいました。DA120はテストをしたという記憶がありませんから、全く相手にされなかったのだと思います。しかし、DL200はイエローキャブに載せたり、いろいろ試行錯誤の上、サーモキング社の車載冷凍機のエンジンテストで興味を持たれたのです。シカゴの杉山駒吉駐在員(その後、三菱自動車に移籍された人)からの連絡を受けたときは嬉しかったですね。いろいろな経緯を経て、ビッグな商売に発展し、つい最近まで続いていたようですから、あの海上運賃の投資はご正解だったと自負しています。それまで、ベンツさんの独占市場でしたので、ここでも風穴を開けたと大いに胸を張ったものでした。
鮮烈な記憶として残っているのは、上野山さんが描いたグラフです。
量産効果によりコストが飛躍的に下がるというカーブを示し、米国市場の巨大さとそこで成功したときの夢を語ってくれたのです。技術者の走行試験の報告も記憶に残っています。材質が持たなかったと残念がっていました。近年になり、現在の仕事の関係で、デンバー動物園に熱帯雨林館を視察に行きましたが、ここがあのDH100が壊れたデンバーかと懐かしく思い出されました。それに海上運賃もそんなにしたのかなーと思います。記憶違いではないと思いますが、6台で現在の価値の1000万円は高いですね。コンテナーなんてない時代ですが。
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