自動車輸出物語 

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記載日付:2000年7月12日
ライター:鈴木富司
番号:000-0002
タイトル:初号車を送り出す陰に秘策あり、祈念があった

皆さんは初号車のテープカットについての思い出がありますか。私の思い出は何といっても、この初出荷の風景です。そこは、ジャカルタの市内の小さな組み立て工場に隣接した事務所前です。ベンツの部品庫を改造した粗末な事務所でした。そこにピカピカの新車が10台勢揃いしていました。何ともおどおどした感じの運転手さんが照れくさそうに並んでいるのが印象に残っています。インドネシア人の社長さんが格調高い演説を終えたあと、花束の贈呈をして、ひとりひとりの運転手さんに、「お願いしますね」と祈りを込めて握手をしたのです。引き続いて、チーフアドバイザーの中村敬止さんやわれわれ「日本人」も握手をしたわけです。当時は日本人は少ないし、運転手さんに握手をする社長さんや日本人なんて想像もつかなかったようですから、驚きと嬉しさが顔に溢れていました。


采配を振るっていた中村さんの思いは、その握手に本当にこもっていたのです。1号車から10号車までを地元のジャカルタには配車をせず、まず東ジャワのスラバヤに送ったのです。運転手さんの得意さが、街道を進むにつれて電波のごとく全国に伝わっていくことを計算にも入れ、念じてもいたのです。その送り出す後ろ姿と車が1台ずつ出ていく姿がダブって脳裏に浮かんできます。


何年も完成車が輸入禁止になっており、国中に新車がなかったのです。街道筋でもほとんど車を見かけない時代でした。ですから、地元のジャカルタで売り出せば引っ張りだこの状態ではあったのですが、新聞の一面広告を3回も打った直後でもあり、幅広く国中にミツビシコルトを浸透させようとの策は、インドネシア人のスタッフにもこのリーダーについて行こうという思いを募らせたのです。占領時代の経験から、日本人にはピンタを食らうぞと忠告を受けていたインドネシア人幹部スタッフにすれば、身分の低い運転手さんに花束を渡して握手までする日本人リーダーはカルチャーショックだったのです。

1971年初めのインドネシアでの物語です。

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